イワシておけばイイダコ思い

歌舞伎の公演や歌舞伎の本や歌舞伎について考えたこと

平成30年1月新春浅草歌舞伎『義経千本桜』「鳥居前」in 浅草公会堂

はじめて浅草公会堂で歌舞伎を見てきました。

昼の部の演目は、1. お年玉(年始ご挨拶)、2. 『義経千本桜』「鳥居前」、3. 『元禄忠臣蔵』「御浜御殿綱豊卿」でした。

ここでは「鳥居前」について書きます。

私は過去に一度「鳥居前」を見ましたが、そのときは三代目中村橋之助(現八代目芝翫)が狐忠信を務めていて、いたく感動したことを覚えています。

特に幕切れの狐六方は本当に素晴らしく、これまで見た六方のなかでも1,2を争うレベルのものでした。

そういうわけなのでついそれと比べて見てしまいますが、あくまで新春浅草歌舞伎は若手による若手のためのものだそうなので、そのような比較はあまり望ましくないのかもしれません。

1月7日でした。

 

・種之助の義経は思っていたよりもずっと口跡がよく、義経らしい思慮深さもやや出ていた。この役は梅玉に教えてもらったそうで、そのあたりはさすがに指導の成果が出ているように思えた。特に静御前に別れを告げる際の「堅固で暮らせよ」と言う台詞はひときわ大事に丁寧に発せられていて、背後にちらと梅玉が見えたような気がするほどであった。表情と発声が抑えられているのも良い。一回目の上手への引っ込みが割にあっさりしていたが、これはこれで一つの行き方なのだろう。

ただやはり童顔がこの役に馴染まず、種之助に染みついている「奴感」が漏れ出てくるのが残念ではある。今後気品が必要となるこのような役にも挑戦していくのだろうか。

 

静御前は梅丸。(おそらく)舞台を拝見するのははじめて。パッと見た感じは本当にかわいらしく、弱い姫の役としてはぴったりの顔だ。うつむいてじっと悲しみを耐えるような仕草と、その時の横顔は大変美しい。

しかし歌舞伎としてはあまりに感情が出過ぎであるように思えた。他の人物が話す台詞にそのたびごとに反応して表情を作ったり体を動かしたりする場面が多く、義経との別れなのでそれも分からないではないが、そのために舞台が散乱するようで好みではない。悪い意味で「演技」をしている印象が強く、ドラマが安っぽくなるように感じられた。

 

歌昇が弁慶。『勧進帳』とは違う猪突猛進の弁慶の感じがよく出ている。一本調子の発声がおかしみを呼ぶ。なんということはない場面なのかもしれないが、別れの直前に義経をとどめて押さえる弁慶の仕草が心に残った。

 

・藤太を演じる巳之助。これが出色の出来栄え。七三で単独でノリで語る場面、また忠信と相対する場面も、台詞の乗せ方が本当にうまく、劇場全体の空気を一変させて自分のものにしていた。体の動かし方も軽やかでありつつ力強く、持ち前の迫力ある顔つきを活かした表情も独自のおかしみを醸し出すもので、観客は自然と笑みをこぼす。何度でも、そしてずっと聴いていたいし見ていたい演技だった。ここまで経験が十分でない役者が多かったためか、やっと本物の歌舞伎役者が出てきたという感じであった。言うことなし。

 

・主役の忠信は隼人。体格と顔は非常に立派で天性のものを感じさせるが、本舞台ではそれが十分に生かし切れていないように思えた。巳之助が良かったため、そちらに押されている印象を受けた。立ち回りはそれなりの迫力があるが動きはやや固い(とは言え途中でやや良化したように見えた)。型をなぞるのに精いっぱいでまだまだ自分の身体に動きが同化できておらず、それゆえ自由闊達さに欠ける。六方も見得も小さく抑えられていて、イマイチ迫力がない。ツケの音に負けている。あえてそうしたのだろうか。六方に関しては、自分はもっと大きく振ったものを見たかった。

台詞はほとんど地声で発されているように聞こえ、歌舞伎らしいケレン味が感じられない。役柄を考慮すると、もっと大げさでも良いのではないか。

とは言え生まれもっての大きさと華がある数少ない役者の一人なので、今後もスケールが求められる立役をどんどんやってほしい。静御前の土を払うような細やかな仕草は良かった。

 

・良いか悪いかはさておき、全体的に軽い印象の舞台であった。義経静御前はいずれもひどく幼く見え、二人のやり取りはまるで子ども同士のものであるようにさえ映る。四天王はそれなりのベテランで固めてあったが、若手のまずい部分を補うことはできていない。男性アイドルの写真集のような作りの筋書きからして、新春浅草歌舞伎で重厚な歌舞伎を求めるのはそもそも筋違いなのかもしれない。そのようななかで巳之助の実力がかえって浮かび上がったのが最大の収穫であった。